仮面の遺言

第1回 プロローグ〜第1章「事故死ではない」

プロローグ

 部屋には、血のついた手紙と、1冊の日記帳、そしてひとりの男がいた。
 鏡に映ったその男の瞳は、深い闇をたたえながらも、どこか悲しげだった。

「俺は……誰を殺した?」

 その言葉は誰にも届かず、ただ鏡の中の自分にだけ跳ね返ってきた。

 壁には、赤いスプレーで荒々しく書かれた文字。

 「これは事故ではない」

 男の背後で、アラームが鳴り始める。午前4時44分。
 その時点で、すでに死は始まっていた。
 だが誰も気づかない。まだ、この街のどこにも“殺人”の気配はなかった。

 この部屋を除いては。

第1章:事故死ではない

 霧島壮一郎は、診察室の椅子に静かに腰掛けていた。壁の時計が午後2時を指している。
 彼は40代半ばの精神科医で、東京・世田谷にある小さなメンタルクリニックの院長だった。
 洗練された言葉遣いと、物腰の柔らかさ、そして患者の目を見つめる深いまなざしで、信頼を集めていた。
 しかしその日は、どこか違和感があった。

「先生、俺……記憶が信じられないんです」

 診察室に現れたその男――三輪達也は、霧島の大学時代の親友だった。

 だが、霧島の記憶では、達也は半年前にドイツへ赴任したはずだった。
 連絡はメールだけで、会うのは3年ぶりになる。

「三輪……? 本当に、君なのか?」

 霧島は動揺を隠せなかった。達也は憔悴しきった顔で、震える手に何かを握りしめていた。

「……これを」

 達也が差し出したのは、黒い革表紙のノートだった。

「これ、預かってほしい。俺に何かあったら……君が読んでくれ」

「どういうことだ? 何があったんだ?」

「覚えてない。ただ、誰かに『見られてる』気がする。俺は……誰かに、記憶をいじられてるんじゃないかって……」

 達也の声はかすれていた。ノートを渡すと、そのまま背を向けて診察室を出て行った。

 それが、最後の別れになった。

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