第3章「達也の生還」
302号室。
扉の前に立つ“彼”を、霧島は目を疑った。
「……達也?」
驚きと混乱のなか、霧島は一歩踏み出す。しかし男は無言のまま、霧島を見下ろしていた。
髪はぼさぼさに伸び、頬は痩せこけている。まるで幽霊だ。だが、確かに彼は“生きていた”。
「君は……死んだはずじゃ……!」
男は、かすかに笑った。
「“僕”は、死んでないよ、霧島。……まだね」
その言葉の意味が理解できない。
達也の口調はどこか機械的で、表情も読めない。
その眼差しは、まるで霧島を試すかのようだった。
達也は302号室に入ると、静かに手招きした。
室内には、簡易なベッドと壊れた鏡、そして1つの古いパソコンがあった。
パソコンの画面には、奇妙な文書が表示されている。
> 【観察対象K】
> 状態:統合記憶障害
> 想起された記憶:鏡、血痕、達也の“死”
> 次の接触予定:観察者Nより指示
「……これは?」
「君の記録さ、霧島。あるプロジェクトにおける、“観察データ”だよ」
達也は椅子に腰かけ、目の下のクマを気にする様子もなく語り出した。
「君は記憶を操作されていた。いや、“観察”されていた、と言った方がいいかな」
「誰に……?」
「“K”に」
「K……?」
霧島の心臓が、ひときわ大きく脈を打つ。
K――それはこれまでのメッセージやノートに何度も現れた謎の存在。
「でもね、Kってのは個人じゃない。ある計画のコードネームなんだ。
正確には、“Kプロジェクト”。対象者の記憶を誘導して、真実から遠ざける実験さ」
「じゃあ……君は、なぜ生きている?」
「自殺なんかしてない。あれは仕組まれた“演出”だった。俺はKプロジェクトの協力者だったんだよ。途中まではね」
「……途中まで?」
「そう。ある時から、計画が“俺自身”に向けられるようになった。
つまり、“霧島を観察する”計画が、“達也を排除する”計画に変わったんだ」
霧島は頭を抱える。脳が追いつかない。何が本当で、何が嘘なのか。
「待ってくれ。じゃあ君は、俺にノートを渡したとき、すでに“殺される役”だった?」
「そう。けどな、あのノートの中に、ひとつだけ俺の本当の言葉がある」
達也は、懐から小さなメモを取り出す。
そこには、たった一行。
「君が最後に鏡を見たのはいつだ?」
その瞬間、霧島の脳裏に、ある記憶が閃いた。
──あの部屋。自分が302号室の鏡の前で、叫んでいた記憶。
自分の名前を、何度も、何度も。
「俺は……俺は誰なんだ……!」
「君には“記憶の空白期間”がある。思い出せ、霧島。君は一度、Kに“なっていた”んだ」
達也の言葉に、霧島は凍りついた。
Kとは誰かではなく、“状態”――つまり、自分自身がKになっていたということ?
「そんな……俺が……?」
「君は優秀だった。でも、それが逆に利用された。
霧島壮一郎という人格を、“観察対象K”というシナリオに書き換えられたんだよ」
達也は言う。
「もうすぐ“記憶の鍵”が揃う。君は全部を思い出すだろう。
でもそれは、君が犯した罪と向き合うことになるってことだ」
「罪……?」
「そう、君が“最初に殺した人間”の記憶だ」
霧島の頭の中で、記憶の扉が少しだけ開いた。
断片的な映像。雨。白衣。血。
病院の一室で、誰かを――
“突き飛ばした”?
足元がぐらつく。まるで重力が狂ったような感覚。
「記憶を、返してやるよ。全部」
達也が立ち上がると、壊れた鏡の奥から、小さなUSBメモリを取り出した。
霧島の手に、それを無理やり握らせる。
「これを、久遠紗英に届けろ。
彼女だけが、君の本当の過去を知っている」
「紗英……?」
その名前に、胸が痛んだ。どこかで聞いた。いや、もっと深い“何か”がある。
達也はもう霧島を見ていなかった。部屋の奥に向き直ると、小さくつぶやいた。
「……間に合うといいけどな、壮一郎」
その瞬間、爆発音が鳴った。建物が揺れる。
窓の外に、炎が見えた。
「くそっ、逃げるぞ!」
霧島が叫んだが、達也は動かない。
「行け、霧島。……お前だけは、真実を見届けろ」
霧島は302号室から必死に逃げ出した。
後方では炎と煙が立ち上っている。振り返っても、もう達也の姿は見えなかった。
握りしめたUSBメモリ。
これが、すべての記憶と、真相の鍵。
そして霧島の頭の中に、ひとつの名前が残った。
久遠紗英――
かつての恋人であり、消された過去を知る唯一の人物。
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