仮面の遺言7

第4章「久遠紗英の沈黙」

 ――久遠紗英(くおん・さえ)。

 その名前は、記憶の奥底から突然浮かび上がったものだった。
 どこか儚げで、美しい響き。けれど霧島の中では、彼女の顔さえ曖昧だった。

 だが、達也ははっきりと言った。
 「紗英が鍵だ」と。

 霧島はUSBメモリを握りしめながら、地下鉄のホームに立っていた。
 目的地は、かつて自分が通っていた大学近くのアパート――
 紗英が最後に住んでいた住所。

そのアパートは、どこか時間が止まったような佇まいだった。
 鉄製の階段を上り、呼び鈴を鳴らすと、数秒の沈黙の後、扉が少しだけ開いた。

「……どちら様?」

 出てきたのは、スラリとした黒髪の女性。
 華奢な体。鋭い瞳。だが、どこか懐かしい匂いがする。

「久遠紗英さん……ですか?」

 女性は霧島の顔をじっと見つめた。数秒の間。

「あなた……霧島壮一郎?」

 その瞬間、霧島の心に波紋が広がった。
 紗英は間違いなく、自分を知っていた。そして自分も、彼女を知っていた。

「久しぶりですね……5年ぶり、かしら」

 彼女の声には微かな震えがあった。嬉しさではない。恐れに近いもの。

部屋に通された霧島は、紗英の前でUSBメモリをテーブルに置いた。

「これを、君に渡すように言われた。……達也から」

 その名前に、紗英の指がピクリと震えた。

「彼……生きてたのね。やっぱり」

「どういう意味だ?」

「私も、ずっと観察されていたのよ。Kプロジェクトの“副対象”として。
 あなたと私は、同じ夢を何度も見ていた」

「夢……?」

 紗英はゆっくりと頷いた。

「血のついた鏡、ヒビの入った顔。
 そして――私たちが“誰かを殺している”夢」

紗英がパソコンにUSBメモリを差し込むと、即座に一つのフォルダが開いた。
 タイトルは、「CIRCULAR MEMORY」

「循環記憶……?」

「見て。これが、私たちの“記憶の記録”よ」

 フォルダの中には、動画ファイルが多数。
 そのひとつを再生すると、霧島の声が再生された。

『……彼女はまだ知らない。この記憶が何度もループしていることを』
『久遠紗英は、私が“作り出した記憶”の一部だ』
『でも、もし彼女が自分自身を思い出してしまったら――この実験は終わる』

 霧島は震える手で口を抑えた。

「これ、俺の声か……?」

「そうよ。あなたはKだった。
 でも私は……Kが作り出した“登場人物”だったの」

 信じられない。彼女が“記憶の中の存在”?
 この部屋も、この会話も、記録されていた記憶のループなのか?

 紗英がもう一つのファイルを開いた。そこには“ある事故”の記録があった。
 2019年6月。霧島と達也、そして紗英の3人が関与したある研究所での爆発事故

 > 事故報告:記憶誘導実験中、被験者が錯乱。
 > 記憶が破壊され、観察対象Kが“人格融合”を起こした可能性あり。
 > 関係者:霧島壮一郎、三輪達也、久遠紗英

 その事故の日を境に、すべてが狂い始めていた。

「この事故のあと、あなたは記憶を失った。
 私は姿を消し、達也は“死亡”として処理された。
 でも、全部“計画の一部”だったのよ」

そのとき――部屋のドアがドンドンと激しく叩かれた。

「……誰?」

 紗英がドアに近づく。霧島も後を追う。

 その瞬間、ガラスが割れた
 何かが部屋に投げ込まれ――が広がる。

「伏せろ!!」

 霧島が紗英をかばうように倒れ込んだ。
 目も開けられない中、外で声が響く。

「久遠紗英、記憶抹消対象として確保する!」
「観察対象Kも確認、回収準備――!」

 霧島は頭の中が真っ白になる。
 この声……この動き……これはKプロジェクトの実行部隊

 彼らは、記憶を取り戻し始めた“霧島と紗英”を**“排除対象”として判断した**のだ。

必死に窓から逃げ出した二人は、近くの廃ビルへと身を隠した。
 紗英の手は震えている。霧島も、胸の奥で何かが壊れていく感覚に襲われていた。

「壮一郎……お願い……
 私を、“忘れないで”」

 その言葉には、哀願とも、覚悟ともつかない感情が混じっていた。

 霧島は紗英の手を握った。
 それが本当に“現実”かどうか、もう確信は持てない。
 けれど、この瞬間だけは、**確かな“存在の重み”**があった。

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