第4章「久遠紗英の沈黙」
――久遠紗英(くおん・さえ)。
その名前は、記憶の奥底から突然浮かび上がったものだった。
どこか儚げで、美しい響き。けれど霧島の中では、彼女の顔さえ曖昧だった。
だが、達也ははっきりと言った。
「紗英が鍵だ」と。
霧島はUSBメモリを握りしめながら、地下鉄のホームに立っていた。
目的地は、かつて自分が通っていた大学近くのアパート――
紗英が最後に住んでいた住所。
そのアパートは、どこか時間が止まったような佇まいだった。
鉄製の階段を上り、呼び鈴を鳴らすと、数秒の沈黙の後、扉が少しだけ開いた。
「……どちら様?」
出てきたのは、スラリとした黒髪の女性。
華奢な体。鋭い瞳。だが、どこか懐かしい匂いがする。
「久遠紗英さん……ですか?」
女性は霧島の顔をじっと見つめた。数秒の間。
「あなた……霧島壮一郎?」
その瞬間、霧島の心に波紋が広がった。
紗英は間違いなく、自分を知っていた。そして自分も、彼女を知っていた。
「久しぶりですね……5年ぶり、かしら」
彼女の声には微かな震えがあった。嬉しさではない。恐れに近いもの。
部屋に通された霧島は、紗英の前でUSBメモリをテーブルに置いた。
「これを、君に渡すように言われた。……達也から」
その名前に、紗英の指がピクリと震えた。
「彼……生きてたのね。やっぱり」
「どういう意味だ?」
「私も、ずっと観察されていたのよ。Kプロジェクトの“副対象”として。
あなたと私は、同じ夢を何度も見ていた」
「夢……?」
紗英はゆっくりと頷いた。
「血のついた鏡、ヒビの入った顔。
そして――私たちが“誰かを殺している”夢」
紗英がパソコンにUSBメモリを差し込むと、即座に一つのフォルダが開いた。
タイトルは、「CIRCULAR MEMORY」。
「循環記憶……?」
「見て。これが、私たちの“記憶の記録”よ」
フォルダの中には、動画ファイルが多数。
そのひとつを再生すると、霧島の声が再生された。
『……彼女はまだ知らない。この記憶が何度もループしていることを』
『久遠紗英は、私が“作り出した記憶”の一部だ』
『でも、もし彼女が自分自身を思い出してしまったら――この実験は終わる』
霧島は震える手で口を抑えた。
「これ、俺の声か……?」
「そうよ。あなたはKだった。
でも私は……Kが作り出した“登場人物”だったの」
信じられない。彼女が“記憶の中の存在”?
この部屋も、この会話も、記録されていた記憶のループなのか?
紗英がもう一つのファイルを開いた。そこには“ある事故”の記録があった。
2019年6月。霧島と達也、そして紗英の3人が関与したある研究所での爆発事故。
> 事故報告:記憶誘導実験中、被験者が錯乱。
> 記憶が破壊され、観察対象Kが“人格融合”を起こした可能性あり。
> 関係者:霧島壮一郎、三輪達也、久遠紗英
その事故の日を境に、すべてが狂い始めていた。
「この事故のあと、あなたは記憶を失った。
私は姿を消し、達也は“死亡”として処理された。
でも、全部“計画の一部”だったのよ」
そのとき――部屋のドアがドンドンと激しく叩かれた。
「……誰?」
紗英がドアに近づく。霧島も後を追う。
その瞬間、ガラスが割れた。
何かが部屋に投げ込まれ――煙が広がる。
「伏せろ!!」
霧島が紗英をかばうように倒れ込んだ。
目も開けられない中、外で声が響く。
「久遠紗英、記憶抹消対象として確保する!」
「観察対象Kも確認、回収準備――!」
霧島は頭の中が真っ白になる。
この声……この動き……これはKプロジェクトの実行部隊。
彼らは、記憶を取り戻し始めた“霧島と紗英”を**“排除対象”として判断した**のだ。
必死に窓から逃げ出した二人は、近くの廃ビルへと身を隠した。
紗英の手は震えている。霧島も、胸の奥で何かが壊れていく感覚に襲われていた。
「壮一郎……お願い……
私を、“忘れないで”」
その言葉には、哀願とも、覚悟ともつかない感情が混じっていた。
霧島は紗英の手を握った。
それが本当に“現実”かどうか、もう確信は持てない。
けれど、この瞬間だけは、**確かな“存在の重み”**があった。
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